昭和四十八年十一月二十五日 朝の御理解

御理解第六十節 「おかげは受け徳、受け勝ち。」


 おかげは受け徳とは、御神徳の徳という字が書いてありますね。普通で言うと得るという字ですね。これはあのおかげの受け儲けというような意味ではないようです。 徳を受けるということ、そして徳を受けた者には勝てんという事、いうならば、神様には勝てんという事。
 どんなにこちらが馬鹿と阿呆で行っておりましても、如何にも馬鹿にされたり、阿呆にされたり、負けたかのように見えますけれども、最後には馬鹿と阿呆で行った方がおかげを受けておるという事。
 いわゆるどんなに、馬鹿にしよった者が馬鹿になり、阿呆にしよった者が阿呆らしい事になってくる。
 どこまでも私共は、おかげを受け徳とこういう。徳を受ける、徳を受けるという事は、神様にそれだけ一歩近づかせて頂いた事ですから、結局はその方が勝ちだという事になりますね。受け勝ちになります。
 六十一節に神より金光大神にいつまでもつきぬおかげを話しておくのぞと、こうおっしゃっておられます。いつまでもつきぬおかげという事がお徳のことだと思う。
 いわゆる無尽蔵ですね。限りなくおかげが受けられる。それは金光様の御信心をしとれば無尽蔵のおかげを受けられるという意味ではない。金光様の御信心を頂くということ、だから金光様の御信心を頂くという事は、お話を頂くという事。
 勿論、お話は金光大神のお話なんです。金光大神が伝えておって下さったお話なんです。そのお話を私共がいよいよ深く、広くわからせて頂くという事。
 それを頂くから次のおかげが約束される。頂くという事は聞くという事じゃない。 勿論、こうして耳に聴かせて頂く、聴かせ頂いたらそれが頂いた事にならなければならない。いうならば、その話が血になり肉にならなければならない。
 只、聞いただけではいけない。尽きぬおかげ、いわゆる限りなく頂けれるおかげを話にしておく。話そのものがお徳であります。金光大神の話は、・・・・
 同時に教えを身につけていくことのお話であります。ですから聞いただけではいけません。それが聞いて頂かねばいけません。そこに教えが血になり肉になってくる。 お話が血になり肉になってくる。お互い日々御理解を頂いておりますが、頂いておるようであって、只、聞いておるだけという事になってはいないか。猛反省が要るところでございますね。      ※      ※      ※      ※      ※ 例えばお相撲を見ますと行司というのがあって、両力士を合わせます。そして、その力量応じてとう言いますか、勝ち負けを行司が決めます。
 軍配のいわば、上がった方が勝ちなんです。私共の信心が神様がいうならば、見ておいでである。神様が聞いておいでである。そうい世界に私共が生き抜くという事である。そこに本当、この教えが身についてくると思う。
 神様という行司がいわゆる見ておって下さる。人間の行司ならば差し違いという事もあるのですけれども、神様の行司には差し違いというものがない。
 ですから私共が如何に神様が見ておいでだから、聞いておいでだから、いうなら、見ておいでる前にどうあらねばならないか聞いておって下さるのだから、私共がどうそこに安心していけれるかと、又喜んでいけれるかはという事になります。
 もう二十年も前の話ですけれども、福岡の秋永先生のところに毎月共励会が、今もあっておりますけれども、あっておった時分から、私がおかげを頂いておった。もうその時分の共励会といえば一晩中、お話もう尽きる事のない程のお話で寝らずに皆が話をする。又話を聞くのです。
 そして私はいつも一番の電車で帰ってくるのですけれども、一寸時間があるからと思うて横にならしてもらいまして、もう目が覚めたのは、一番電車の出る音で目がさめた。あらっと思うて、まあ目がさめましたけれども、うとうとしとりましたら、三代金光様のお声で、神様が見ておいででございますというお言葉を頂いた。
 ですからもう、それこそびっくりするような気持ちで、二番電車で帰らして頂いた事がありました。
 神様が見てお出ででございますから、行が有難いのです。ですから、なら、私共のいうておるのを神様は聞いておって下さるのですから、神様の心に適わないような事はいえない事になるのです。いうなら日頃教えを頂いておるそれを基にして、行動をする。教え基にして、私共日々の生活があるという生き方にならなければならないという事がわかります。それが私共の信心が、血になり肉になっていっておるのです。 いうならば、行司というのは行が司るのです。私共の頂いておる信心、聞いておるお話、お話を行の上に現して行く。その行が次の行の勝負けを決定するのです。勝ち負けを司るのです。
 どれだけお参りをしておっても、お話を頂いておっても、それがやはり神様が聞いておって下さるのですから、ですから裏表の心も、陰ひなたの心も出せない事になる そこで私共日々、お礼を申しあげるところはお礼を申しあげ、お詫びをさせて頂くところはお詫びをさせて頂いての信心者の御教えに守って行くという、御教えを頂いて行くという、生活がなされなければならない。
 そういうところに私はおかげは受け徳と。それを本気で行の上に表して行く人が勝つんだという事になります。
 そして徳を受けた者には勝たん、力を受けた者には勝たんという事にもなります。 神様が見ておって下さるという、聞いておって下さるという生活それが信心をいよいよ、血肉にしておる人の生き方であり、成程おかげは受け徳、受け勝ちだと。
      ※      ※     ※      ※      ※ 昨日は田主丸の教会の先生が御礼に出て見えました。先日二十三日が御大祭であちらの御大祭でした。ここの、今度は記念のお祭りですから、舞の奉納をしたい、それで家の舞衣を貸して頂きたい、装束を貸して頂きたいと言うてあったそうですから、私はどうぞお使い下さいと言うとりましたら、丁度何日か前に取りに見えて、それをお使いになって、大変おかげを頂いてお祭りも盛大のおかげを頂いたという事でございましたが、又、御用がある時にはいつでもお使い下さいという事でございましたが とても今の久留米地区との関係、合楽との関係で、御装束でもここに借りにこられるという。又借ってでもというような教会はどっこもないと思うです。
 けど田主丸がそれを淡々として借りに見える。こちらも喜んでそれを貸して差し上げれる。ついこの教会がなかった前は、いうならば、教会が田主丸の教会が一番、矢面にたって、ここんところの教会を認可するしないで問題になった教会です。
 それは勝ったとか負けたとかの問題じゃございませんけれどもです、そういう私はおかげになってくるのです。
 私は、ほうら家に借りにきた、やっぱ俺が勝ったとは思いません。又事実、そんな事じゃありません。けど私はここで受け勝ちというのは、そういう意味の事だと思うです。ほうらあの奴らに負けたけん、今度は勝たにゃといったようなものではないと思うです。どこまでも受け勝ちというのは、そういう例えば、元は仇同志であったような場合であってもです、神様のおかげでこう有難たい事になってくる時には、もう敵も味方も一緒に助かっとるといったような、敵とか味方というと言葉が過ぎますけど、そういうおかげになって行くという事なんですよ。
 私が、ぐうぐう言うち堪えとったら、向こうから断りにこらっしゃった。もうこちらが勝った気分になっている。向こうは負けた気分になっておる。こんなもんじゃない。どこまでも受け勝ちというのは、田主丸と合楽教会の関係の事を思うて、昨日の事を思うて頂くと、ははあ、受け勝ちとはこういう事とわかります。
 恐らく私も、それこそ御用に使うて頂いたのですから、向こうもそうなんですからもう、淡々とした何とも言えん舞の金冠ですね。冠が二つ要るのに、一つはあるんだそうで、だから御装束は二人前だそうですけれども、冠は一つでええというて借りて行ってあったそうです。
 だから昨日、持って来てあるとか、先生それが家がうっかりしとったもんじゃからどちらが家のやら合楽のやらわからんごとなっしもうております。すみませんけれども、一寸見てこれでよかったかどうか見て下さいと、もう、そういうような事でもですね、実に淡々として、有難い話の中にね、もう何もないような有難いおかげです。 なら、つい、この前までは何と言いますか、商売仇とでも申しましょうか、そういうような事であった。
 けれども、それが解決のおかげを頂いた時には、受け勝ち、受け勝ちというのは、もう敵もなければ味方もない、有難い世界に一緒に引き込んでおる働きの事なんです そのへんのところを一つわからせてせらわねばなりません。まあ問題は神様が見ておいでであり聞いておいでであるという世界に生きぬくこと、それが信心だと。
 そこにいうならば、神様が行司、勝ち負けのいうなら軍配は神様が上げて下さる。 おかげは受け勝ち、受け勝ちというところを今日はそんなふうに聞いて頂いた。
 金光大神いつまでも尽きぬおかげ、限りなくおかげの頂けれる話を残しておって下さる。この話を聞くのでなくて頂くという事。頂けば私共、いうならば、有難い心をいよいよ育てて行く為の生活という、生活ぶりができなけりゃならん。それには神様が見ておいでである、聞いておいでである。
 そこから行を現して行く楽しみも、有難さもいよいよ尽きぬおかげになっくるわけでございますからね。
 私共がややもするとお話を、尽きぬおかげの頂けれるお話を頂きながら聞いておるだけ、頂いていない。血肉になってないから力がないという事にならんようにおかげを頂きたいと思うですね。どうぞ。